世界を見つめる目でありたい。
午前7時、子供たちをそれぞれの昼の居場所へと連れてゆく妻を見送る。夕方から夜にかけて撮影がある今日の私はその準備と心支度に集中するため自宅作業である。見送った後、まずは皿を洗う、裏庭に出て野菜回りの草を抜く、小さな苗は子供に似ている、愛でてついつい語り掛けたりしちゃう。アっという間に時間が過ぎる、背中に、じんわりと汗を感じて風呂に入る。それでだいたい1時間が過ぎている、そこからデスクに向かい、クライアントワークに励む。博多の会社のWebsiteを制作中である。電話とメールで諸々の擦り合わせと打合せをこなす。長文のメールを書く。腹が減る。コンビニに行ってカップ麺と煙草。ひとやすみして仕事。カメラを小掃除、電池の補充、メモリーカードを新調。昼過ぎ、家族が帰宅。
皆が高性能なスマートフォンを持っている時代だからLiveのジャンルに関わらず”現場”では皆、カメラを持ち撮影している。そんな中で報酬を頂いて記録しているのはその空間の中で私を含めて一人か二人だ、スキルではなく、責任の違いに背筋を伸ばす。例えばクライアントがクリエイターだったりデザイン畑の人の場合、自分でも”写真を撮れる人”も少なくない。その写真やレンズが趣味の範疇を越えていることも多く恐縮する、それならば私は一挙一動に集中して被写体とより向き合うことは当然、撮影データの取り扱いにも気を遣う(”責任”の所在はだいたいここにあるのだと念じながら)。それに写真の良し悪しは依頼人の好き嫌いに左右されるし、撮る人間のパソナリティにも直結する。万人に対して愛想良く出来ない私はスタートラインがだいぶ不利だ。不利だと知りつつ諦めている、偉い馬鹿をおだてて貰う仕事に喜びや興奮は無く人生は短い。そんなことを3日に1度は考えながら昨日知り合った木工作家との会話の中で言った言葉「写真は仕事にもなるし、作品にもなるし、子育ての記録にもなる。それは僕にとって本当に幸せなことだと思っています」
その場所の空気がわかる、
手触りの”在る”写真を撮るために世界を見つめる目でありたい。
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