答えのない問いについて
22日、日曜日、午前。カメラを持って息子とふたりで街を歩いた。同日、いま、住んでいる小さな町の山の上に計画されている巨大風車に反対するイベントが開催されており、友人諸君も多く参加していた。私も会場での記録撮影を軽めに依頼されてはいたのだが、そこは西俣文学のブラザー・リョーにまるっとお任せして私は敢えて八重山に立つ巨大風車について何も知らない市井の人々や、その人たちが過ごすいつも通りの日曜日を写すことに決めた。
風光明媚なその場所に必要のない風車が立つ。”必要のない”と思っている人以外は”関係がない”と思っているのか知らないだけか。とはいえ知れば反対するのだろうか。鹿児島自然100景なんぞにも選ばれている八重の棚田の景観は崩れるが風車までの道のりは整備され誰でも気軽に登れる遊歩道に仕上がるビジョンは”悪くない”イメージとしてメリット化する可能性も高い、そもそもコロナや戦争の脅威に晒されている日々の中で人知れぬ(生活圏から大きく外れた)山奥に立つ風車に対して何かしらの意識を持つことが出来るのだろうか、などなど。そのように、暮らしと政治と歴史と意識が複雑に絡み合っているからこそ簡単ではない思考の出口を、それぞれのやり方で表現することが”運動”なのだと私は考えている。

春の小雨ちりぢりと舞う日曜午前の天文館、何かを否定する言葉や、安易な答えを提示するのではなく、むしろ答えのない問いについて考え続ける時間を過ごした。というか歩いた。
偉い人や、儲けたい人の臭い思惑の元、善良な(無関心であったとしても不感症であったとしても多忙であったとしても阿呆であったとしても、もはや肉や骨の置き物だったとしてもラブとピースのその隙間であったとしても)私たち市民が分断するのは懲り懲りだよ。賛成と反対と、どちらでもない選択こそ、正しい未来に繋がる気がするのよね。(そんな選択肢あるのか?などと、引き続き、”答えのない問いについて考え続ける時間”を過ごしている)自然破壊はもうヤメよう、風車が何本立ったところで、太陽光パネルが何万枚敷かれたところでこの国の原発が止まるわけでもあるまいし。もはやそれは人々の暮らしに役立つモノではなく、人と人の意思や日々や愛に溝を生む関係性の殺戮兵器にも思える。
追記・今回の反対運動は、風力会社サイドの気持ちよくないやり方に端を発する(周知されない(しないまま)開催された形だけの住民説明会などなど)。”賛成と反対と、どちらでもない選択”以前の問題だというのもわかっている。私の場合、知り合いに一生懸命頑張っている風力会社のひと(優しいぽっちゃり)が居たりして、風車の建設が自然破壊に直結し得るのかどうか、という点においてもっともっとリサーチと見聞が必要だな、と考えている。それにしても郡山は今日も鳥の声が心地良い。ずっとこうあって欲しい、ずっと。
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