なるようになる


こういう意味のわからない(意味のない)ポーズを瞬時にとれる子供の自由な感じ、見習いたい気持ちもある、とはいえどうしようにも戻れない切なさを抱えながら、胸の奥の”ひょうきんな俺”を撫でながら、こんにちは私です。

日記はやっぱり書かんとね、と思う。

書こうと思ったり書きたいと思ったことも、その日のうちに書かんとね、綺麗に忘れちゃう。メモを取るなど、野暮なことはしない。昨日は息子とゴールデンカムイを観て21時に寝た。5時に目が覚めてまた目を閉じて6時過ぎに起きた。早起きにもだいぶ慣れてきた。そういえばこないだ、シンウルトラマンを観に行ってきたのだ。

その前日に、
このような感じで、ツイターに質問をしてみたのだが返信がゼロだった。

"性的描写が"という言葉が目立つシンウルトラマン、小1の息子と観に行ってもいいか?誰か教えて下さい。息子はジョジョやゴールデンカムイが好きです。両方まあまあ性的描写があるのだが、どうだい?

 返信がゼロということで、世界中から無視された気分になり虚しさが溢れた。タグを付ければ良かったとかそういうことではなく、これだけ話題の映画なのだ、フォロワーの中にも観た人間は居たろうに、と嘆きながらSNSのドブに唾を吐いてSNSのドブを閉じた。SNSのドブに映った私の顔は惨めだったに違いない。もう2度と、SNSの”っぽい”使い方なんてしないもん。SNSのドブに浮かぶ沈みかけたツイートに誓った。 それにしてもシンウルトラマンは面白かった。「これはいつものウルトラマンだと思って観に行った子供にとっては最悪だけど、俺は父ちゃんが行こうって行って一緒に来たからなんとなくわかっていた。こういうことだってわかってたからギリ楽しめた」とは、じきに7歳になる息子の感想である。見事だと思った。私は、子供向けの映画を子供と一緒に観に行くほど優しくはない。どうしても観たいのなら一人で行くか母親に頼めと伝えてある、だから彼はひとりで行く、少し前の「妖怪大戦争」は迷ったが、一緒には行かなかった。こないだはコロナの都合で散々延期を繰り返された念願のドラえもんを母親と妹と観に行き、3人とも楽しそうだった。それについては母親って優しいな、といつも思う。鬼滅の刃も西野のプペルも不二子のソレも、全て母親が付き添っている。俺にゃ無理だ。俺が思う映画館の美学に反する。

シンウルトラマンについて、映画のあらすじやありきたりな感想はその辺の感想を書くのが好きな人に任せる。この手のレビューが絶望的に下手な私は、”書くこと”で逆につまらなく感じさせてしまう”作品への罪”を、もうこれ以上負いたくないのだ。ツイターに書いた”性的描写”などほとんど感じることはなかった。ここのことだろうな、と思うシーンはあれど、こちとら息子と一緒に毎晩ゴールデンカムイを観ている身なのだ。あれに出てくる多種多様な変態に比べたら長澤まさみなんて(そのまんまの意味で)可愛いものだ。ゴールデンカムイの変態は本当にエグい。頼む、「これはどういう意味?」と聞いてくるなよ、と念じながら鑑賞しているシーンは少なくないどころか、むしろ多い。あれに年齢制限が無いのは不思議である。登場するキャラクターの変態の質が、本物である。そういう意味で、息子との鑑賞は”問題”ではなく”教育”の類なのかもしれんな。世界には、測り知れん奇妙なヤツが一杯いるのだ。また話が逸れた、シンウルトラマンについて書こうとしたのだ。近頃、本当に鬱陶しくて煩わしい世の中になったのだが、シンウルトラマンが私に思い出させてくれたのは絶対的な「希望」だった、ということを言いたかった。


大丈夫、なるようになる、ではなく、いつだって未来は僕らの手の中なのだ。

コメント